2020年5月14日の毎日新聞朝刊に代表 八幡真弓も取材を受けた記事が掲載されました。
(記事リンク)

こちらに、八幡真弓の個人のFacebookに記事掲載時に記事を紹介して投稿した文章を転載します。
(2020年5月23日投稿 from 八幡真弓Facebook)
2020年5月14日の毎日新聞朝刊に、大変感動的な記事が載った。
「性暴力問題に向き合って」という。
私は嬉しい。
私も取材をいただき記事内で触れていただいているが、それだけでなくて嬉しい。
「声を上げない人に思いを」
「告白や糾弾を伴わなくとも」
「社会の無関心、加害行為に加担」
そんな言葉が躍る。
この記事を書ききった菅野蘭さんの頑張りに心からの敬意を評します。I am proud of you.
そう、私はただ思う…
「声を上げる人『も』素晴らしい戦士」
「声を上げない人『も』素晴らしい戦士」と。
今、声を上げている本人の気持ちではなく(←これは尊重すべき勇気。素晴らしい決意と思う)
【世の中】に「声を上げれるようになったね」「声を上げよう」「声を上げるって素晴らしいよね」という風が吹いているように感じる。
古き良き社会運動の流れを汲んでか「黙っているのは共犯だ」というほどの強いメッセージすら伝わってくることがある。
「次の被害者を出さないために」という言葉までも。
(↑これに至っては大きな誤解が含まれている。次の被害者を出すのは『加害者』だ。私たちではない)
でも、よく考えてみてほしい。
【サバイバーはイコール(=)社会活動家ではない】のだ。
もちろん、サバイバーでかつ社会活動をしたい人もいるだろうと思う。
でも、それは当然だけど「全員」ではない。
もともと、
「コミュ障」
「人見知り」
「引っ込みじあん」
「そういうタイプでない人」も、
加害者の【勝手】で被害者にさせられるのだ。
勝手に選ばれて勝手に暴力を与えられたからと言って、『全員』が社会を変えてやる!と立ち上がるように変幻するわけじゃない。
引き続き「人見知り」だったり「引っ込みじあん」だったりする。
もしくは、被害を受けて、
「目を逸らしたい(忘れたい)フェーズの人」も
「生きるのも精一杯の人」も
「違うステージで生きる事で自分を保つ人」
だっている。
PTSDなどで「人と話す事が困難になる」場合だってある。
もちろん健康面から「そのままの状態で大丈夫か?」という問いはあるだろうが、
そこは本人が自分のタイミングで自分なりの回復を選択して、本人が医療と相談しつつ進めることだ。
誰かが『回復しろ』と強要することではない。
暴力と関係ない人だって、
自分の精神バランスの為に喫煙する人も、自分のタイミングで歯医者に行く人もいる。
健康向上の目線では、やめた方がよかったり治した方がよかったりすることが明らかでも、
「治せ」と他人に強要されるのも違うし、そのまま人生を送り終える選択をする自由だってあるだろう。
サバイバーが自分のバランスで生きる時、
それは「静かな戦い」の最中であって、
その戦術は(たとえそれが他人から見てあぶなっかしくとも)本人が何万回も検討を重ねて選択して実行されている。
その戦いを邪魔することは、やっぱり「邪魔」でしかない。
そこに「黙っているのは共犯だ」
「声を上げる事は素晴らしい(上げないのは素晴らしくない)」
「次の被害者を出さないように(行動しなければ次の被害者を出す)」
「さあ、行動しろ」と言ったらどうだろう?
なりたくもない身の上にさせられて、かつ苦手な事まで「やれ」「やらないのは無責任だ」と言われるのが妥当?
まるで自分が、次の被害者を生み出す「加害者」のように感じさせる言葉を、聞かなければならない?
ちょっと立ち止まって、思い出してほしい。
私達は自分で進んでサバイバーになった訳じゃない。
色んな個性と、色んな人生背景の中で生きてきた中で、勝手に被害者にさせられただけだ。
全員が、性暴力の専門家になろうと育ってきた訳でもない。
突然、望まない戦いに引きずりだされて戦うはめになっただけなのだ。
バタフライエフェクト
さっきのような言葉が伝わることで、私たちの中で嵐を起こすことがある。
そして、それが魂を削ることも。
誤解のないようにもう一度繰り返しますが、
私は「声を上げる人は素晴らしくない」とは一切思っていません。(なんなら、私も「発言」している訳だし)
ただ「全員が声をあげたい人ではない」と、
「声を上げること『も』素晴らしい」
「声を上げないこと『も』素晴らしい」
【 どちらの「戦術(選択)」も尊重して欲しい 】
これをいうためなら私は声を出す。
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